株式会社RECEPTIONIST代表ブログ

株式会社RECEPTIONISTの代表取締役CEO 橋本が運営するブログです。

橋本真里子の「作り方」〜出会いこそが人生だ〜

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受付嬢から起業した事で変わった人間だと思われる事が多いですが、私は「普通」だと思っています。

 

今回のブログで「普通」を何と定義するかというと「特別何か秀でているものがない。平均的。」です。

 

「派遣で、受付嬢から起業しているから普通じゃないじゃん!」

 

とよく言われますが、それはあくまでも結果論であって、私自身はあくまでも普通だと今でも思っています。

 

 

みんな「起業に至った理由」を私に求めてきます。

 

だからよく「元々ご実家が事業をやられていたりしたんですか?お父様は経営者ですか?」とよく聞かれます。

 

その答えは

 

「いいえ。旭化成に新卒から定年まで勤め上げたサラリーマンの家庭に育ちました。」

 

こういった質問になるのは、きっと経営者がそばにいる環境で育つと自然と自分もそういう道を選びやすいという概念があるからだろうと思います。

 

確かに環境は人格形成においてとても重要です。

 

重要ですが、経営者の家族に生まれるとそういう素質が育つ、人格形成に関わるのはごく一部でしかないと思います。

 

それは言い換えると

 

もっと大切なことがあるという事です。

 

先ほどもお伝えしたように、私の父はいわゆる「サラリーマン」でした。

 

理系で研究者として旭化成に入社したと聞いています。

  

ここで、私の家族構成など出生に関するお話をしたいと思います。

 

私は父(66歳で他界)・母・兄二人の5人家族。

父は荻窪出身、母は横浜の出身です。兄とは10歳と6歳離れています。

 

兄二人は東京で生まれているのですが、私は父が転勤になった先の三重県鈴鹿市で生まれました。

私はある意味「できちゃった娘」だったんです笑

 

両親は子供二人を想定して実家を建てていたのですが、仲が良かったんですね^^

どうやら私がいつの間にかお腹の中に宿っていたそうです。

 

その時母は36歳。父は40歳になる歳でした。

当時、その年齢で出産することは結構珍しいことだったみたいで、いわゆる高齢出産に値したそうです。

 

私を妊娠したことが発覚し、家族会議が開かれたそうです。

母としては、この歳で3人男の子育てるの大変・・・などと不安に思ったこともあったでしょう。

 

開かれた家族会議にて確か長男が「せっかくできたんだから産めばいいじゃん」と言ったらしく、その一言で、この世に私が誕生することになったのです。

 

なんと単純な。笑

 

今と違い、生まれてくる前に性別が把握できる技術がなかった時代なので、生まれてくるまでお腹の形などで予想をされていたそうです。

 

私の時もお腹の形が「男の子が生まれてくるタイプ」だったそうなので、産まれるまで私は男の子だろうと言われていました。

 

父が会議中に出産したそうで、生まれてみると

 

「ついてない!!!」w

 

意外や意外。女の子でした(ここで私がこの世に誕生しました。1981年11月26日のことです)

 

まずこれが人生を大きく左右する最初のラッキーでした。

というのも、歳が離れて生まれてきて、しかも「男」「男」からの「女の子」。

これは世間的にたいそう可愛がられるであろう兄弟構成だそうです。

 

「確かに」と思う部分と「いやいや・・・そんなに甘くない」と思う部分があります。

 

まず違うなって思った現実をお話しすると、次男とはめちゃくちゃ喧嘩しました。

 

6歳の歳の差なんて大して開いてないと思うくらいよく一緒に遊びましたが、毎日取っ組み合いの喧嘩を市まくりましたし、おやつなんて分け与えれらるものではなく、自分から確保しにいくものという毎日サバイバル感満載な日々を送ってました。

 

長男においては、私が8歳の時に彼は18歳。大学受験を終え、東京の大学に進学しました。

 

ですので、私は長男と一緒に幼少時代を過ごして記憶がほとんどありません。

 

たまに東京から帰ってくる兄は私からすると「大人の男の人」っていうイメージが近かったです。

そして、たまにしか会わないので、会った時に集中してからかわれたり、いじめられたりするんですよ。(もちろん愛情を持ってのいじめですが。笑)

 

「妹も泣かせるのが楽しい」

 

というドエスな兄達の中で育ったので、3人目は女の子であったはずが男勝りな女の子になってしまったのです。

 

親戚を見ても、地域を見ても圧倒的に私の周りには男性が多かったです。

 

環境的にやること、遊ぶ相手、全てが私を「男性と対等に生きていかねばならぬ」だったのです。

私のこの可愛げのないサバサバした性格の原点になっていると思います。

 

もう一方、たいそう可愛がられる現実のお話をすると、父からは「溺愛」されていたと思います。

周りの方からもそう見えると言われていましたし、私もそう感じてました。

 

今じっくり振り返ってみても、

父から怒られたことは一度だけでした。

 

それも旅行前に次男との喧嘩を一喝されたくらいのものです。

「これしたい。あれしたい。」に「ダメ」と言われたことは一度もなかったのです。

 

私が生まれたことにより、父の彼女の座は母から私に奪われたせいか、母は今でも乙女です。笑

私が着ている洋服を本気で欲しがりますし、何ならあげてます。笑

 

父がよく「うちは子供が4人いる」と言っていました。

ちなみに母が4人目の子供で、私の妹のポジションです。

そりゃ洋服もねだられますよね・・・。妹ですから。笑

 

四人姉妹の末っ子に生まれている母なので、そのポジションが得意なんでしょう、、今でも相談に乗ってもらうのではなく、私がいつも相談に乗ってます。笑

 

ジェラシーとは違うと思いますが、昔の母はとても厳しかったです。

 

いわゆる「教育ママ」でした。

  

学生時代に一番言われてこと。

それは「勉強しなさい!」でした。

 

母とも毎日と言っても過言ではないほど喧嘩してましたね。

 

その母との過去に変わるキッカケがありました。

 

私が中学校1年生の時でしたが、その件についてはまたいつかブログに書きたいと思います。

 

もちろん、今でも会うと時々喧嘩もしますが、仲良くやっていると思います。

 

そして、父との関わりについてですね。

 

よく女の子って思春期?くらいの年齢になると「お父さん嫌い病」が発生すると耳にします。

 

「お父さんの洗濯物と一緒に洗わないで!」

「一緒の空気吸っているのすら嫌!」

 

なんて娘から言われているお父さんたち。少なくともこう言うお話を耳にしたことがある方は少なくないのではないでしょうか。

 

私においては、そんなことは全くなかったです。

そんなことを思う娘の気持ちが全くわからないです。

 

いわゆる思春期の時期になっても、私はお父さんとよく出かけていました。

中学・高校生になっても毎週のように一緒に買い物に行ったり、ドライブに行ったりしてました。

いつも助手席に座るのは、母ではなく私。

 

私は高校がとても遠いところにあり、毎日1時間以上かけて通学をしていたのですが、

実家から最寄の駅は徒歩約5分。

その5分の距離を毎日送り届けてもらってました。笑

 

とにかく仲が良く、高校サッカーの予選も遠くまで見に付き合ってもらったり、私の友達にもとても優しかったです。

あーーー思い出したら泣けてきて、ブログが進みません><

 

なので、ちょっとお父さんとの話はこれくらいにして、また家族話はいつか続きを書きたいなと思います。

 

 

というか、どうして今回このお話を書いたかというと、

 

そうやって父とたくさん関わることにより、学べたことがたくさんあったからです。そして、それは起業家ではない父から起業家になる私にとって最も重要な教えだったと思うからです。

 

父は間違いなく人格者でした。

 

温厚で誰に対しても平等で優しくて、自分よりも周りを大切にする人でした。

仕事をしている父の姿はあまり知りませんが、会社の方を家に招いてBBQしたり、お誕生日会などをやったり(自分のではなくて社員の方のです)と普段から父の仕事仲間の方と関わる機会は多かったです。

 

そういった方々から聞く話は「お父さん、仕事の時はとっても厳しいんだよ」なんていう内容もありました。

 

でも、みなさんそのあとに必ず「でもお父さんみたいな人と一緒に仕事できてよかったよ。橋本さんの下で活躍したメンバーは社内でもちゃんと活躍の場を広げていって、出世しているよ」と教えてくれました。

 

幼いながらも嬉しかった。

 

そういった経験が今の私を作っている大きな土台になっていると思います。

私もこういう風に言ってもらえる大人になりたいと思ったことが自然と私に染み付いています。

 

両親から、

 

「挨拶をしなさい」

「きちんとお礼を言いなさい」

「謝りなさい」

「自分よりも周りを優先しなさい」

 

など、人としての大事な大事な基礎を与えたもらったと思っています。簡単なようで、できるようでできないことだと思いますし、こうような習慣につながる行動は、1回伝えれば済む話ではなく、長い時間接して、折に触れ教えてもらったから身につくものだと思います。

 

だからこそ、それを教えていくには根性もいるし、両親のように愛情がないとなかなかできないことなんじゃないかなと思います。だから、両親から教わるに通じている気がします。

 

「素直にまっすぐ生きなさい」

 

これを両親から与えてもらったと思います。

なのでこんな天真爛漫に育っちゃいましたが、実はとても大切な言葉です。

 

経営者になってみて、たくさんの方からアドバイスをいただきたり、サービスのフィードバックをいただいたり、カンファレンスなどで人のお話を聞く機会が受付嬢の時より圧倒的に増えました。

 

素直な気持ちを持っていないと、こう言った貴重なお話も自分のものにはできないと思うのです。

 

全てを受け止めては自分が無くなってしまうことにつながるかもしれませんが、一旦素直な気持ちで聞き入れて、自分の中で今何が必要か、何を心にとめるべきかの精査するという行為が自分の成長につながると思います。

 

もちろん自分が成長すれば、会社もサービスも成長します。

弊社のメンバーの共通項の一つは「素直さ」です。

 

だからこの1年でみんなみるみる成長しています。

 

私が起業する際によく考えてことがあります。

 

「どんな有名な大きな企業の社長だって社長1年生が必ずある」

「赤ちゃんの時から社長なんて人はいない」

 

必ずどんな経営者も幼少期や学生時代などを経て、経営者になっているわけです。

経営に関する知識は教えてもらうことも重要だけど、経験に勝るものはないし、何が正解とも適宜しづらいと思います。

 

そういう風に考えると、私だってできるかもしれない!と思えました。

 

何が伝えたかったかっていうと、起業家において遺伝的なものではなく、後天的にどう言った環境で育ってきたかが何より重要で、どんな人と出会ってきたかが同じくらい重要だということです。

 

1度しかない人生。

 

どんな人とどれだけ出会うかが、人生の豊かさに繋がると思います。

 

それはお金では買えない「豊かさ」。

 

毎日たくさんの方に出会う日々です。

起業してから私の人生はとても豊かになりました。

(お金の話ではないです)

 

とにかく、たくさんの人がそばにいてくれて、力になってくれて、支えてもらっています。

  

そんな風に感謝の気持ちを常に持つことも、私は両親から教えてもらいました。

一つの会社で真摯に向き合って勤め上げる姿勢。会社のメンバーを大切にすること。

 

そしていつも穏やかな心で人に接すること。

ここには書ききれないたくさんのことを父の背中から感じ、学びました。

  

この全てが今の私を作ったんだと思います。

 

こうして今の「橋本真里子」が出来ております。

まだまだ完成系には程遠いのですが、これからも皆さんに「私」を作っていただきながら、前に進んで行きたいと思います。

  

あぁ、もう涙でPCが見えません。

ですのでここらで今日のブログは失礼いたします。

 

いつも読んでくださり、ありがとうございます^^